Journal d'Une Inconnue

極私的備忘録

「American Fiction アメリカン・フィクション」

ぶっちゃけ、面白くなかった。

巷の評価は高かったし、実際賞も取っているし、ストーリー的にも好みだったので期待しすぎたせいもあるが、肩透かしを食らった感は否めない。

冒頭の講義のシーン(髪の毛をグリーンに染めた女子学生がフラナリー・オコナーの短編タイトル「THE ARTIFICIAL NIGGER」という言葉そのものに拒否反応を示して教室を出ていく)に「Tar」のバッハを拒否する男子学生のシーンを思い出したが、「Tar」のほうが圧倒的に説得力があった。

なぜだろうと考えてみると、主人公(指導者)の反応の違いにある。

「Tar」では主人公と拒否する学生の側の会話が深い。双方とも折れず真っ向から対立しながら、芸術作品の良し悪しとプライペートの関係の問題にまで及んでいる。

一方「American Fiction」では両者がまともに議論をしない。「Tar」とは対照的に、教える側が学生に説明を尽くそうともしない。だから、あくまでも“それっぽい”シーンを入れただけという印象が拭えなかった。

そして初っ端にそう感じてしまったからか、その後も“それっぽい”シーンの連続を見せられているという醒めた気分につきまとわれて、全然入っていけなかった。

クライマックス直前の主人公と若い売れっ子黒人女性作家の議論のシーンも、こここそ一番の鍵となるくだりのはずなのに、ありきたりな言葉の応酬で終わってしまった。

だいたい、小説家が主人公なのに、どんな小説をこれまで書いてきたのか・今回書いたのかその中身(テキスト)が具体的に示されることはほとんど無いに等しく、執筆しているシーンもこれまたほとんど無いので、主人公の職業を小説家に設定する必然性を感じない。

家族関係の設定もリアリティが感じられなかった。主人公以外親きょうだい皆医者の家なのにお金に困っている? お手伝いさんを長年雇っているのに? もちろん母親を高額の老人医療施設に入れるためではあるけれど。

でも、オチのシーンは秀逸だった。うんうん、アメリカン・フィクションってこういうことだよねと唸りながら、ああ、そうだそうだと、「サラ、いつわりの祈り」という自伝小説を思いだした。あれこそ、全米どころか世界中のセレブ・業界人から市井の人々までがまんまと騙された。挙句、というか案の定、入れ込んだアーシア・アルジェントが監督・主演で映画化してしまい...。

何を隠そう私も騙されたひとりで、封切り直後にシネマライズ渋谷に観に行った。

恥ずかしい過去。あの頃はまだ初(うぶ)だったんだな。すでに中年だったけれど!