Journal d'Une Inconnue

極私的備忘録

Lee Chang-dong: 「The art of irony 」(イ・チャンドン「アイロニーの芸術」)

寡作だけどその全作品が不世出の傑作。

毎作、映画でしか体験できないものを与えてくれる。

本当に映画でしか語れない方法で、映画だからこそ気づくことのできるものを見る者にもたらす、

そんな映画監督のインタビュー・ドキュメンタリーをネット配信で見た。

思っていた通りの人だった。

虚飾や虚栄とは無縁の人だった。

演技であそこまではできない。

インタビューでの語り口と言葉、風貌と身なり、あちこちを案内するときの歩き方、盟友とのお喋り(ムン・ソングンとの電話・対面)、そのすべてに彼らしさが出ていた。

一言で言えば、誠実。すべてに対して。

控えめだが謙遜というのともまた違う。社会に対する深い問題意識を持ちながら、短絡的な正義感や一面的な批判に陥らない。

かつて盧武鉉政権で文化長官を務めたとは信じ難いほど朴訥としている。あれでよく政治家や官僚と渡り合えたものだ。

元教師で元小説家という経歴も影響しているのだろうが、本人が淡々と明らかにした子供時代の大変な生活が良い形で人格形成に寄与していると感じた。

印象に残った発言:

「Burning(バーニング)」は、村上春樹的時代を生きるフォークナーの物語

 

 

「Anatomie d'une chute (落下の解剖学)」

2023年のカンヌ・パルム・ドール作品。

この年の審査委員長は大好きな映画監督だったので、彼が絶賛したなら間違いなしと思って見たが(ただし動画配信で)、正直期待外れだった。

なにしろ、緊迫感がない。次々と明らかになる夫婦の真の関係性とか、そんなに驚くこと?って感じで。視覚障害のある息子の証言の変化も、だから?ってな感じで。

そんなふうだから、自殺でも事故でも殺人でも、途中からどうでも良くなった。

 

ただ、それでも一つ、はっとさせられたことがある。

それは小説を書く才能について。もっと言えば創造活動の残酷さ。

主人公である妻は小説家として成功し、同じく小説家を目指している夫のほうはうまくいかない。

しかも、妻は夫が温めていた題材を用いて着実にキャリアを積み上げている。

そのことが夫は許せない。自分のアイディアを奪ったと妻を詰る。

それに対して妻は、あなたもそのアイディアで書き上げれば良いと言う。確かにあなたのを使わせてもらったが、それをふくらませ展開させて小説に仕立てたのは私の力だと。

このくだりの正確なセリフは覚えていないが、おおよそこのような応酬があった。

そしてはっと思い出したのは、京アニ放火犯のことだった。

彼の犯行動機も、自分の作品が盗作された、だった。

 

小説に限らず、あらゆる芸術に当てはまることだと思うが、

どんなにアイディアやテーマが素晴らしくても、それを<適切な>形に昇華させることができなければ、意味をなさない。徒労。

でも当の本人はその冷酷な現実を受け入れられない。だから、自分の考えが他者に取られた、あるいは先を越されたと思う。

でもそもそも、その自分だけのアイディアやテーマって、本当に自分だけが思いついたものだろうか?

誰もが思っていること、考えつくことではないのか?

創造活動とは、そうした皆が漠然と感じたり思っていることに某かの形を与えて、読む者、見る者を驚かせることではないのか?ーーこれまでにない視点から、あるいはこれまでにないアプローチで。

そんなことを考えさせてくれた点で、良い映画だった。

 

 

 

 

 

 

「SHERWOOD 刑事シンクレア シャーウッドの事件」

最近見た中で一番見応えがあったドラマシリーズ。

タイトルのシャーウッドは、まさにロビンフッドの住処ノッティンガム州シャーウッドの森。

行ったことがないので実際には知らないのだが、ドラマによるとこの辺りはかつて炭鉱で栄えた町だったらしい。

この地域が辿ったその後は日本各地にあった炭鉱の町と同じだ。

エネルギー革命により徐々に規模を縮小し、人員整理、そして閉山。その過程で労働者のストライキ、組合の分裂やスト破りが起きて労働者間に、その家族間に、さらに家族内でも分断が起きてしまう。廃山に伴い多くは町を去っていったかもしれないが、当地に残った人も少なくない。日本の場合は分からぬが、このドラマで描かれる町では当時ストを巡って袂を分かった人たちが袂を分かったまま隣人同士として暮らし続けている。互いへの憎しみや怒りをマグマのように抱えたまま三十年も。

そんなふうにぎすぎすした町で、かつて急進的組合のリーダー格の活動家だった初老男性が深夜パブの帰りに弓で射られて殺される。地元警察は当然、過去のわだかまりから起きた事件として捜査を開始。すると今度は若い地元保守系女性議員(父親は当時炭鉱=体制側のバス運転手)の殺人事件が起こり、両件は関連づけて捜査されるが……

 

実際にこの地で立て続けに起きた2つの別個の事件を題材にしているという。

https://www.nottinghampost.com/news/nottingham-news/bbc-one-sherwood-real-story-7169789

https://www.mirror.co.uk/tv/tv-news/sherwood-true-story-jealous-dad-27231084

https://www.esquire.com/uk/culture/a40287331/sherwood-true-story-bbc/

 

あくまでも題材であるから両者を関連づけた劇的な展開と結末に仕立てることも可能だったろうが、ドラマのほうも無理なこじつけはしなかった。蓋を開けてみれば偶然同時期に起こった全く別物の、それも過去の怨恨とは無縁の事件だったという顛末に持っていきながら、両事件の犯人をシャーウッドの森で出会わせるという脚色を加えている。

巧い。この手の題材を使うと往々にして「正しさ」の誘惑に駆られてしまいがちだが、現実はそうなんでもかんでも映画やドラマのように劇的にはつながらないし、実際の我々の人生は複雑で割り切れないものと踏みとどまることで、すなわち力業で正義を行使しないことで、これみよがしなプロテストものにも紋切り型の勧善懲悪・復讐ものにもならずに済んでいる。もちろん涙と感動の押し売りとも無縁だ。

そして、そのように抑制が効いているからこそ、炭鉱の栄枯盛衰と労働者間の連帯の切り崩し・分断という歴史が、実は今にも通じる普遍的な問題であることをじわじわと思い知らせてくれる。

ふつうの生活者同士が対立し、果ては憎悪をたぎらせ罵り合うことになる一方で、資本や国家は高みの見物を決め込んでいる。というか、彼らの用意周到な策略――「ストを必要としていたのは実は自由化(deregulation)を進めたい政府の側だった」と劇中で弁護士が語る――によって我々は敵対させられ修復不可能なところまで分断させられる。結果我々はどちらの側にあっても消耗し、権力が漁夫の利を得て勝利の高笑いに興じる。本当に、それは今も変わらない。日本でも、世界各地でも。

登場人物の造形と相関関係もよくできていた。主要登場人物の多くが「過去(当時)」の痛みや後ろめたさをなんらかの形で抱えている。視聴者は早いうちから、何かあるな、と折にふれて気づかされるが詳しいことは分からない。それが終盤に来て次々と明らかになるのだが、その持っていき方も巧みだった。引っ張り方が自然―ー本人の葛藤――で、嫌らしくない。最終的には事件の解決と共にそれぞれが自分の過去ときちんと向き合い、心的にも対人的にも清算していく方向に向かう。

主人公の家族を含め多くの住民を不幸に陥れた元凶、警察派遣の潜入工作員は意外な人物だった。最終話でついに主人公はこの人物を特定するに至り、しかも当人と真正面から「対決」することになるのだが、その決着の仕方がまた意外だった。韓国映画・ドラマだったら絶対ありえない!(笑)

最後まで抑制のきいたドラマだった。さすが英国、成熟した大人の国はやっぱり違うと唸ってしまった。

 

誰でも隠しごとはある。

そのような他人の秘密を知り得てもそれを表沙汰にできるのは当人だけ。

他人を断罪するよりまず、自分の暗部に向き合い落とし前をつける。

自分が赦されたいなら他人も赦さなければならない。

それを皆が各々実践できればこの世はもう少し生きやすくなる。

そんなことまで考えさせてくれたドラマだった。

 

 

 

「American Fiction アメリカン・フィクション」

ぶっちゃけ、面白くなかった。

巷の評価は高かったし、実際賞も取っているし、ストーリー的にも好みだったので期待しすぎたせいもあるが、肩透かしを食らった感は否めない。

冒頭の講義のシーン(髪の毛をグリーンに染めた女子学生がフラナリー・オコナーの短編タイトル「THE ARTIFICIAL NIGGER」という言葉そのものに拒否反応を示して教室を出ていく)に「Tar」のバッハを拒否する男子学生のシーンを思い出したが、「Tar」のほうが圧倒的に説得力があった。

なぜだろうと考えてみると、主人公(指導者)の反応の違いにある。

「Tar」では主人公と拒否する学生の側の会話が深い。双方とも折れず真っ向から対立しながら、芸術作品の良し悪しとプライペートの関係の問題にまで及んでいる。

一方「American Fiction」では両者がまともに議論をしない。「Tar」とは対照的に、教える側が学生に説明を尽くそうともしない。だから、あくまでも“それっぽい”シーンを入れただけという印象が拭えなかった。

そして初っ端にそう感じてしまったからか、その後も“それっぽい”シーンの連続を見せられているという醒めた気分につきまとわれて、全然入っていけなかった。

クライマックス直前の主人公と若い売れっ子黒人女性作家の議論のシーンも、こここそ一番の鍵となるくだりのはずなのに、ありきたりな言葉の応酬で終わってしまった。

だいたい、小説家が主人公なのに、どんな小説をこれまで書いてきたのか・今回書いたのかその中身(テキスト)が具体的に示されることはほとんど無いに等しく、執筆しているシーンもこれまたほとんど無いので、主人公の職業を小説家に設定する必然性を感じない。

家族関係の設定もリアリティが感じられなかった。主人公以外親きょうだい皆医者の家なのにお金に困っている? お手伝いさんを長年雇っているのに? もちろん母親を高額の老人医療施設に入れるためではあるけれど。

でも、オチのシーンは秀逸だった。うんうん、アメリカン・フィクションってこういうことだよねと唸りながら、ああ、そうだそうだと、「サラ、いつわりの祈り」という自伝小説を思いだした。あれこそ、全米どころか世界中のセレブ・業界人から市井の人々までがまんまと騙された。挙句、というか案の定、入れ込んだアーシア・アルジェントが監督・主演で映画化してしまい...。

何を隠そう私も騙されたひとりで、封切り直後にシネマライズ渋谷に観に行った。

恥ずかしい過去。あの頃はまだ初(うぶ)だったんだな。すでに中年だったけれど!

追悼 イ・ソンギュン

好きな韓国俳優のひとりだった。特に声に惹かれた。

映画「最後まで行く」で大ファンになった。

ドラマ「マイ・ディア・ミスター~私のおじさん~」での演技もぐっとくるものがあった。

私は韓国語がまったく分からないので事件の真相や彼が置かれていた状況を知ることはできないが、こんな亡くなり方はあんまりだ。

他者に危害を加えたわけでもあるまいし、仮にドラッグでは有罪だったとしても彼に対する私の評価は変わらない。イ・ソンギュン氏は素敵な俳優だった。

合掌

 

「American Pastoral アメリカン・バーニング」

「The Many Saints of Newark (ソプラノズ  ニューアークに舞い降りたマフィアたち)」と同時代のニューアークを描いていると知り意気込んで観た。

結果は一言でいうと、肩透かしを食らった気分。期待しすぎたせいもあるが、焦点のぼけた家族ものメロドラマといった感じだった。

唯一印象に残ったのは主人公の父のキャラクター。

「The Sopranosソプラノズ」の主人公の母を父親にした感じ!

こんな父親を持ったら子どもは普通に育たないだろうと思う。

それなのに主人公と父親の関係はほとんど描かれずじまい。

家族の話なのに家族間の心的関係がさっぱり浮かび上がってこないし、過渡期のアメリカおよびニュージャージーの時代背景のほうもさっぱり伝わってこなかった。

 

「The Sopranos ザ・ソプラノズ」ファン必見サイト

日本語でネット検索すると、これといったサイトに出会えない。

検索の仕方が悪いのかもと思い、英語でいくつかのキーワードを同時並列して検索したら、とても素晴らしいサイトに行き着いた。

どちらも大変参考になる。

 https://sopranos.fandom.com/wiki/Main_Page 

https://sopranosautopsy.com/